⚡ 黄金世代の巨人(80年代)
星野好造は、藤原文太や城島俊也と同じ畏敬をもって語られる名前だ——いずれも80年代というるつぼで鍛えられた巨人であり、日本の峠がまだ荒々しく、無法だった時代の男たちである。
茨城の山々で、星野はただ走っていたわけではない。支配していた。その伝説は、単純でありながら誰にも真似のできない土台の上に築かれている——足だ。
⚡ ゴッドフット:ペダルの上のバレエ
『ゴッドフット』という異名は詩的な誇張ではない。アクセル、ブレーキ、クラッチの操作は、人間に可能な領域を明らかに超えている。
つなぎがあまりに滑らかで、あまりに完璧にセッティングが出ているため、外から眺めているだけでは、ハンドルの下で足が踊っていることにすら気づけない。
城島と星野は互いを補い合う二人組だ——神の手と神の足、絶対的な技術の完成が持つ二つの顔である。
⚡ GT-Rとの蜜月
日産スカイラインGT-Rとの関係は、ほとんど信仰に近い。始まりはR32だった。山でAWDの獣を手なずけるとはどういうことかを教えてくれた、最初の現代GT-Rである。
R33が出たときも意気込んで手に入れたが、落胆はすぐに来た。あの車の何かが、どうしても自分の走りと噛み合わなかったのだ。星野は迷わず手放し、最初の相棒である別のR32へ戻っている。
だが日産がR34を、とりわけV-Spec II Nürを世に出したとき、星野は決定的な一台に出会ったと悟った。「フェラーリだの何だのを買える人間はいる」と、自分の答えを知る者だけが浮かべるあの穏やかな笑みで言う。「けどな、俺は死ぬまでGT-Rに乗るよ」。
⚡ 「フーヤ!」:声を出すという技術
星野には、長年ライバルたちを困惑させてきた癖がある。走りながら声を上げるのだ。感情でも恐怖でもない。純然たる技術としてである。
「フーヤ!」——そして、でたらめに聞こえて実は狙いのある音を発する。頭を、完全な集中と本能的な流れのちょうど境目に置いておくためだ。
静かすぎると考えすぎる、と星野は言う。そして峠で考えすぎるのは、死に直結する。
⚡ 惜しみない師:プロジェクトD
高橋啓介との出会いは、このベテランのもう一つの顔を浮かび上がらせた。惜しみなさである。黄色いFD3Sを駆る若造の燃えるような情熱に心を動かされ、星野は極めて価値のあるものを差し出した——プロの世界への伝手、本格的なレースへの扉だ。
啓介が礼を尽くして辞退し、プロジェクトDにはまだ果たすべきものが残っていると告げたとき、星野は腹を立てなかった。むしろ逆で、その筋の通し方が敬意を一段深めただけだった。
その後の、拓海をめぐる城島との会話が、ついに星野の目を開かせる。新しい世代は現れただけではない。師を超える準備を、すでに終えていたのだ。
性格
城島が瞑想的な沈黙なら、星野は放たれるエネルギーだ。声も大きく、感情もはっきり出す。だからといって、切れ味が劣るわけではまるでない。バトルの最中に上げる声は、そのやり方を知らない者を混乱させる。あれはコントロールを失っているのではなく、独特な形で表に出た完全なコントロールなのだ。知識に対する惜しみなさも際立っている。他のベテランのように秘密を抱え込むどころか、若い才能を積極的に育てにかかる。高橋啓介がFD3Sで全開の走りを見せたとき、星野が見たのは脅威ではなかった。機会を与えるに値する、まだ開き切っていない可能性である。謙虚さは城島とは別の形で表れる。訊き、問い、新しいものに素直に驚いてみせるのだ。城島が拓海とのタイムアタックに確信を持てないと認めたときの、あの驚いた顔——あれは嘲りではない。神ですら同格を見つけうるという事実への、率直な承認だった。星野は片足を伝統に、もう片足を未来に置いて生きている。峠は秘密が受け渡されたときにだけ生き残る、と理解しているからだ。使い手とともに墓へ入るようでは、終わりなのである。
哲学
“すべては足から始まる。この単純な事実が星野の哲学を貫いている。アクセル、ブレーキ、クラッチ——この三つのペダルこそ、峠に傑作を描くための筆だ。足の動きが破綻すれば、ハンドルの上の手がどれほど完璧でも車は応えてくれない。バトル中に声を出すのも、精神の均衡への深い理解から来ている。完全な沈黙は過剰な集中を呼び、過剰な集中は本能の敵になる。「フーヤ!」——一つひとつの声は、頭を「そこにあるが邪魔をしない、集中しているが硬直していない」というリラックスした臨戦状態に留めるための錨だ。アスファルトの上で実践される、禅の武人の哲学である。そして個人の技を超えたところで、星野は別のことを強く信じている。受け渡しだ。使い手とともに死ぬ技は、無駄になった技である。だから啓介に手を差し伸べたし、その若者が一時的に断るという判断も尊重した。知識は先へ進まなければならない。さもなければ峠は、その世代とともに死ぬ。”